「世界のクロサワ」黒澤明氏のメンターとは?人生の大きな8つの転機も紹介

黒澤明

[引用] http://www.eiganokuni.com/

「世界のクロサワ」と聞いて、あなたは誰を想像しますか?

逝去されてからもうすぐ20年の歳月が経ちますが、映画監督であり、巨匠として有名だった黒澤明氏の名前は、今の若い世代であっても一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

彼のダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風は、多くの聴衆の心を捉えてきました。

そして、黒澤氏の名前と同じくして、必ずと言ってよいほど列挙される方々。
小津安二郎氏や三船敏郎氏、スティーヴン・スピルバーグ氏やジョージ・ルーカス氏、はたまた、北野武氏など。

これらの人々と黒澤氏との関わりを辿ると、近代映画史のほとんどを振りかえることができるほど、黒澤氏は長きに渡り、数多くの著名人に計り知れない影響を与えてきました。

『羅生門』や『生きる』、『七人の侍』など、30本もの監督作品は、時間が経過してもなお色褪せることのない映画として、多くの人に愛され続けています。

七人の侍

[引用] http://www.asahicom.jp/

黒澤氏の人生に大きな影響を与えたものは?

8つの人生の大きな転機

さて、この黒澤氏ですが、映画監督として、初めて文化勲章受章、文化功労者顕彰、東京都名誉都民に選出され、従三位、国民栄誉賞、さらには、日本人初のアカデミー名誉賞を受賞しています。

父親

そんな彼の「映画との出会い」を作り、人生に大きな影響を与えたのは、実は彼の父親でした。

黒澤氏が幼稚園に入園した頃、映画を観ることが「教育上好ましい」とよく父親に連れられて行かれたことから彼の映画人生が始まったのです。これが黒澤氏の人生の1つ目の転機。

当時、彼は、ウィリアム・S・ハート主演の西部劇や連続活劇など、洋画をよく観ていたといいます。

「生涯の恩師」立川先生

小学校低学年の頃、黒澤氏は気が弱く、泣き虫でいじめられっ子でした。
そして、3年生の時、図画の時間に描いた絵が他の生徒に笑われる中、担任だった立川先生はこの絵を個性的だと褒めるということがありました。

これが2つ目の転機。それ以来、黒澤氏は絵を描くことが好きになり、それが高じて学校の成績も伸びて、やがて級長になりました。後に黒澤氏は、立川先生を「生涯の恩師」と語っています。

ロシア文学

黒澤氏の3つ目の人生の転機は中学時代で、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学を読み耽ったことで、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けたといいます。

美術学校の受験失敗

そして、4つ目の転機は美術学校の受験失敗。
それでも画家の道を諦めきれなかった黒澤氏は、川端画学校に通って洋画を勉強しました。
後に二科展に入選した彼は、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなど、ルネッサンス美術の絵画や彫刻に心酔していたといいます。

画業の見切り

5つ目の転機は、画業の見切りです。
黒澤氏は、突然、新聞広告で見た映画製作所の助監督募集に応募し、100倍の難関を突破して入社したのです。

そして、主に山本嘉次郎監督の下で助監督を務め、彼の助言でシナリオを書くようになります。
『達磨寺のドイツ人』、『雪』、『静かなり』と立て続けに世間から高い評価を受け、次第に「クロサワ」の名前は全国に知られていきます。

特に、戦中、初の監督作品として、自らシナリオを書いた『敵中横断三百里』は、新人監督としてはスケールが大きすぎるとお蔵入りとなり、後に、この企画を見送った担当者が、「私の一生の最大のミステーク」と語ったことは有名な話です。

画業を捨て、新しい映画産業という分野に踏み込み、ようやく監督デビューをしたのは『姿三四郎』という作品。 この作品で黒澤氏は新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞しました。

三船敏郎との出会い

彼の6つ目の転機は、三船敏郎氏との出会いです。
終戦直後に行われた東宝ニューフェイスのオーディションで、間違って俳優志望の面接を受けていた三船敏郎氏に一目ぼれした黒澤氏は、彼をなかば強引に抜擢します。それ以降、計16本の彼の作品に三船氏を起用し、全作で主演として扱いました。 

黒澤氏は「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語っており、黒澤氏が「世界のクロサワ」と呼ばれると同時に、三船氏も「世界のミフネ」として海外で広く知られる存在になっていきました。

代表作、羅生門

7つ目の転機は、黒澤氏の代表作となる『羅生門』の撮影。難解な内容の当作品は、国内ではあまり高く評価されませんでした。

しかし、海外では大きな反響を呼び、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞。 その映像感覚が国際的に注目されて、「世界のクロサワ」と呼ばれるようになるのです。

三船敏郎

[引用] http://cinema.sugai-dinos.jp/

ハリウッドへの進出

8つ目の転機は、ハリウッドへの進出です。次第に、ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤氏は、アメリカで『暴走機関車』の製作を準備します。

しかし、当作品は、用意された脚本に黒澤氏が納得しなかったことや、制作方針を巡り、アメリカ側のプロデューサーと対立し、頓挫。

日米合作『トラ・トラ・トラ!』の製作では、黒澤氏とアメリカ側の映画作りの方法がうまく合わず監督を降板。決して順風満帆なスタートではありませんでしたが、ジョージ・ルーカス氏とフランシス・フォード・コッポラ氏を外国版プロデューサーに配して『影武者』を発表。カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞しました。

続いて、フランスとの合作で『乱』、スティーヴン・スピルバーグ氏の提供で『夢』を製作し、クロサワここにありを世界に知らしめました。この世界への挑戦が日本人初のアカデミー名誉賞へとつながりました。

当受賞式では、ルーカス氏とスピルバーグ氏が、「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介しています。

黒澤明氏のメンター、ジョン・フォード氏

このように幾度となく、人生の中で大きな転機に遭遇してきた黒澤氏。彼を師匠とあがめ、大な影響を受けてきた人は数知れず、彼こそが偉大なメンターではあるのですが、彼にもまたメンターの存在はありました。

ジョン・フォード氏

[引用] http://www.3ddproductions.com/

その人の名は、ジョン・フォード氏。

黒澤氏はジョン・フォードを敬愛しており、かつて巨匠といえば誰かと聞かれたときに、「ジョン・フォード、ジョン・フォード、ジョン・フォード」 と答えたほどです。

西部劇映画の監督として有名で、西部の荒野の厳しい自然風景を壮大なスケールで描き、荒野に生きる男の心情を情感豊かに表現する作風で知られています。

黒澤氏の映像表現と作風は彼から影響を受けていると考えられています。

フォード氏は、このような作風から、「詩情豊かな映像の詩人」と呼ばれ、また、『荒野の決闘』のような多くの西部劇傑作を生み出していることから、西部劇の神様とも呼ばれています。

出典

http://www.eiganokuni.com/
http://www.asahicom.jp/
http://cinema.sugai-dinos.jp/
http://www.3ddproductions.com/

黒澤明